スポーツの素晴らしさ、世界のトップに立つことの厳しさを、未来ある選手たちに伝えていきたい
現役時代から木下グループと契約を結び、引退後にはスポーツアンバサダーに就任した元プロ卓球選手・水谷隼。世界の頂点を見たからこそ、未来ある選手たちに“世界を目指すことの厳しさ”を伝えたいと語る。改めて振り返る木下グループと歩んできた道のり、そしてこれから先に目指すものとは──?
所属契約の決め手は“世界で1位を獲るため”
──木下グループとは2017年3月にプロの卓球選手として所属契約を結んでいましたが、きっかけは何だったのでしょうか?
2016年のリオデジャネイロオリンピックでの試合をたまたま観て、僕のことを「支援したい」と思ってくださったようです。リオオリンピックは、僕が日本の卓球界史上で初のシングルス銅メダルを獲得して、団体戦男子でも銀メダルを獲得したこともあって、それまでまったく注目されていなかった男子卓球がフィーチャーされた大会でもありました。
たくさんの方に「卓球は格闘技だ」と表現していただいたこともあり、木下グループも僕のプレーから何かを感じてくださったんじゃないかなと思います。
──男子卓球が注目されたことで契約の話もいくつかあったと思いますが、木下グループを選んだ決め手とは?
金銭的な部分での支援というお話は多くいただきましたが、木下グループとは卓球を続けるための環境づくりについてお話しすることができ、その環境を完璧に整えていただけると確信しました。リオオリンピックを終えて、東京オリンピックに向けての4年間を見据えたときに、環境づくりは一番大切なことだと思っていましたから……むしろ、卓球をやっていくうえで僕はずっと昔から環境を求め続けていたとも言えるんです。
中学からずっと海外で生活していたのも、日本には卓球を続けていくための環境が整っていなかったから、海外のリーグへ行かざるを得なかったことが理由でした。そして、日本に帰ってきている間はいつも大学の練習場をお借りしていて……お願いする立場だったので、好きなときに練習できるわけでもないですし、いつでも練習相手がいるという環境ではなく、日本に帰ってきても自分の居場所がないような印象でした。
──そういった思いもあって、契約の際に環境の整備を重視されたんですね。
そうですね。いまお話ししたようなことをお伝えしたら“チーム水谷”を作ってサポートしていきたいと提案してくださいました。のちにTリーグ(日本のセミプロ卓球リーグ)ができるということで、木下グループとしてTリーグにも参戦して、練習場を作って選手を集め、指導者も呼ぼうと。そんなに素晴らしい環境で卓球をやらせていただけるならぜひお願いしますということで、すぐに話がまとまった記憶があります。
──そうして選手として木下グループと契約を結び活動していくなかで、とくによかったと感じる点はどこでしたか?
すべてが完璧なんですよね。「もうちょっとこうなったらいいんだけどな」と感じることもなく、「こうしてほしいです」とお伝えするとすぐにその要望を取り入れてくださって。何か不満が生まれたとしても、それを伝えたらすぐに解消してもらえるような環境を整えてくださいました。
──例えばどのようなところが「完璧」と感じたのでしょうか?
練習場を作るにあたって、国際試合で使う赤いフロアマットや卓球台を用意してくださいました。卓球台って各メーカーによって球の弾みが全然違うんですよね。1台だけでもかなり費用がかかるので、大学や実業団も基本的にはひとつのメーカーと契約して取り入れているんですが、木下さんは「どの大会に出ても調整ができるように」と、国際大会で使用する6社くらいの卓球台を購入してくださいました。ボールも同様ですね。
本当に世界で1位を獲るための環境づくりをしてくださいましたし、その後もトレーニングルームやマッサージルームができたりと、アスリートがベストコンディションで練習や試合に臨めるように、より良くなるように環境を改善してくださいました。間違いなくいまの日本で一番質が高くて、環境が良い卓球練習場だと思います。
──完璧な環境づくりでバックアップされることで、メンタルの変化もあったのでは?
安心できましたね。それまでは非常に苦労しながら自分で練習場所や練習相手を探していたので、やっと落ち着いて練習できる環境が整ったなあと。そこまでしていただいたからには、結果を残せるかどうかは努力次第だと感じましたし、「この環境で強くなれなかったら、きっとどこへ行っても自分は強くなれないだろう」と思いました。
アスリートとして生きていくうえでの“厳しい部分”も伝えていきたい
──そうして臨んだ東京オリンピックでは混合ダブルスで金メダルを、男子団体で銅メダルを獲得。その直後に引退する意思を表明されました。
もともと「東京オリンピックで国際大会は引退しよう」というのはかなり前から決めていましたが、Tリーグの選手としてはプレーを続けたいという気持ちがあったので、木下グループにも東京オリンピックで完全に選手を引退することは伝えていませんでした。だから、発表したときに「木下グループとの契約も終わるのかな」と思っていたんです。
──伝えていなかったのはなぜでしょうか?
自分のなかでは引退を決めていましたが、オリンピックが終わってからまた感情が変わる選手ってたくさんいるんです。自分ももし「やっぱり選手を続けたい」と思った場合、先に伝えてしまうと言い出しづらくなってしまいますし(笑)、オリンピックが終わったときの正直な気持ちを伝えるのが一番いいのかなと思いまして……木下グループだけでなく、それ以外のスポンサーも含めて、オリンピック後の記者会見で初めて僕の意向をお伝えしました。
──その後、木下グループからは契約終了ではなくスポーツアンバサダー就任の打診があったのですね。
引退については「本当にお疲れさま!」とあたたかい声をかけていただいて、この先僕自身がどんな活動をしていきたいと思っているのかという部分を聞いてくださいました。現役は引退しますが、卓球イベントや卓球教室は今後も継続してやっていこうと決めていたことをお伝えして。
引退したとしても、元アスリートとして現役の選手に伝えられることはたくさんあると思っているということもお話ししていくうちに、「スポーツアンバサダーという形で携わるのはどうだろうか」という提案をいただいたので、お受けすることになりました。
──その際、木下グループからは活動の内容について、要望などはありましたか?
具体的な内容というよりも「スポーツ界全体を見てほしい」とお願いされました。それまでは卓球で結果を残すことがすべてでしたが、「スポーツアンバサダーとして、木下グループすべてのスポーツを見てほしい。機会があれば選手たちに講演したり、背中を押してあげられるような活動をしてほしい」という要望をいただきました。
実際に、スポーツアンバサダーの契約を結んでからすぐに京都にある「木下スケートアカデミー」で講演したり、サッカーの始球式に行ったりと幅広く活動を行っています。
──それらの活動を通して伝えていきたいことは?
僕は専門家ではないので、卓球以外のスポーツに関して技術的なことはわかりませんが、オリンピックの緊張感だったり、アスリートとして上を目指し強くなるためにはどうやったらいいかという心構えは誰よりもわかっていると思うので……とくにアスリートとして生きていくうえでの厳しい部分を伝えることが多いかもしれません。
自分自身、若い頃にたくさんの講演を聞いてとても勉強になりましたが、優しく伝えてくださる先生が多かったんです。でも、僕が見てきた世界のトップというのは本当に厳しい世界でしたし、勝者は1人しかいませんから。そういった厳しい部分を僕は伝えていかなければいけないと感じています。
ただ厳しいだけでなく、努力した先には明るい未来が待っているから、みんなもがんばって世界一になってほしい。僕の話を聞きに来てくださる子どもたちのなかには「世界一になりたい」という気持ちが強い選手が多いので、どうしたら実現できるかということを素直に伝えられたらいいなと思っています。
世界のトップ選手たちが集まるTリーグを盛り上げていきたい
──オリンピックで盛り上がった日本の卓球ですが、現状はどのように感じていますか?
オリンピックのときはもちろんすごく盛り上がり、それ以降も卓球人口は上昇し続けています。そういった意味ではオリンピック効果が大きかったと思いますが、Tリーグの観客動員数は減少しているんです。それはおそらく、卓球という競技ではなく特定の卓球選手にフォーカスが当たっていることが原因ではないかと思っています。
「この選手が出ているから試合を見てみよう」という人は多くても、競技自体が話題に上ることがなくなってきていることを考えると、Tリーグ全体をもっと盛り上げる必要があると感じています。日本のトップ選手=世界のトップ選手ですから、その世界のトップ選手たちが集まるTリーグが盛り上がっていないのは寂しいですよね。
──Tリーグを盛り上げるためにやれることとは?
木下グループのホームタウンの川崎でTリーグの試合が行われたときに、ゲストとしてファンの方たちと交流を深める機会をいただいたのですが、すごく盛り上がったんです。そういった活動をたくさん行っていけば必ず集客につながると思いますし、もっとメディアと密接な関係を築いて、Tリーグが行われた夜のニュースでも扱ってもらえるようなアピールをしていきたいと思っています。
──水谷さんご自身としては、今後どんなことをやっていきたいと思っていますか?
現在、コメンテーターや解説、情報番組やバラエティー番組のゲストとして幅広くテレビに出演させていただいていて、卓球のラケットを持たない仕事もかなり増えてきました。いただいた仕事は常にしっかりと準備して、最高のパフォーマンスが出せるよう日々努力しています。
水谷隼=卓球というイメージが世間のみなさんにはあると思うので、自分がテレビに出演することで卓球も盛り上げられるように。たまにはテレビで現役のときのような素晴らしいプレーを披露することができたら嬉しいですね。
それとは別に、先ほどもお話ししたように、オリンピックの金メダリストとして自分が経験したことを、これから先オリンピックを目指す選手や世界一を目指す選手たちに対して伝えていくことが自分の使命だと思っているので、スポーツアンバサダーとして今後も自分にしかできない活動をしていきたいと思います。
企画/株式会社iD 文/とみたまい